烏龍茶

ライフスタイルをシンプルに整える

シンプルな生き方を模索し、目の前の幸せを大切にしていきたい。そんな私の願望をブログにしました。ミニマリストを参考にしています。

偉人の言葉を聞いても、行動までは変えられない

偉人の言葉に感動することがある。


例えば、老子の言葉で感動する。或いは、ソクラテスの言葉で感動する。


そして、自分の中の価値観が変化する。


老子の、ソクラテスの言う通りだ、と思うわけだ。


価値観が変化すれば、行動も変わる。


しかし、そう簡単に人間の行動は変わらない。


何年も生きてきて根付いた価値観は、単なる言葉を知っただけでは揺らぐことがない。


つまり、行動まで変化させるほどの価値観の変化は、単なる言葉を知っただけでは起こり得ないのではないかと思う。


行動まで変化を及ぼすためには、まず、その言葉が生まれた経緯を知る。


何故その言葉が生まれたのかを知る。


次に、改めて現在の自分の価値観と照らし合わせてみる。


本当に、この言葉は自分の価値観へ取り込んで良いのだろうかと勘案する。


そして、その壁を突破することで、本当の意味で感動し、納得する。


それで初めて、行動まで変化させるほどの、価値観の変化が訪れるのではないだろうか。

 

単発的に言葉が行動を変えることはある。


しかし、数時間、或いはその日だけくらいの期間しか持たない。


音楽や漫画、映画などに触れると、そのようなことはよくある。


積み重ねれば価値観まで変わるのかも知れないが、単発では僅かな変化しかもたらすことはできない。

 

だから、良いなと感じたことは、深掘りしてみようかと思う。


自分に染み込ませるために。


深掘りすることは大変かも知れないが、容易く手に入れたものに、価値観まで左右されるほうが怖い。

 

 

 

カバンの中身

今週のお題「カバンの中身」

 

私はノースフェイスのリュックサックを使っている。

容量は23リットルなので、あまり大きくない。

必ず入っているものは、以下の道具たちだ。

 

  • 財布
  • 携帯
  • ボールペン
  • 読み途中の本
  • リップクリーム
  • メモ帳
  • 家の鍵
  • イヤホン

 

どんな時でも、これらは必ず入ってる。

それぞれに、特にこだわりは無い。

無いと困るから持っている。

持ち物には、プラスの感情もマイナスの感情も持ち込まないようにしようかと思っている。

気に入れば過保護になるし、少しでも好きではないと思えば途端に憎らしくなるからだ。

長持ちしている物は、大抵、大して気に入っていない。

使いやすいの一点のみ。

 

 

女を舐めるなよという人

女だからといって舐めないでという女性は、反面、受け入れなければならない事柄がいくつか発生すると思う。

女だから舐めてかからないということは、女だからといって甘やかさないということに繋がる。

女性が甘やかされたいと思っていると言いたいわけでは無い。

紳士的な振る舞いを享受できるのも、女性だからだということが言いたい。

そしてその紳士的な振る舞いは、強制されると出てこない。

また、男女による差別を取り払えば、男らしさを否定することにもなる。

男女を平等に扱うというのは、両性の「らしさ」を消し去る側面がある。

そのことを踏まえた上で、男女の平等を主張して欲しい。

しかし、男女は全く違った生物であるのに、同じように扱うというのはいかがなものか。

男尊女卑は論外だが、互いのらしさを尊重し合い、良い意味での差別を推したい。

服ってものは

自分の好きな服をひたすら着ると、好きなことを忘れる。そんな気がする。その段階までもっていきたい。

服には段階があるのではないか。

まず、好きな服を探す。

雑誌やTV、SNSを通じ、いいなと思える服を見つける。次に、実際に着てみる。

これは、買う人もいれば試着で済ます人もいるだろう。大体の人は試着だと思う。

実際に着てみた後は、自分のクローゼットやタンスに保管する。つまり、好きだと思った服をいつでも着られる状態にするということだ。

選択する権利を確保した、好きな服を自由に扱える状態。

次は、もう一度着る。意外と、この段階を乗り越えることが難しい。

買ったはいいが、あまり着ていない。そんな経験は誰にでもあるだろう。

買ったことで満たされてしまったのか、一度着て飽きてしまったのか、理由は良く分からない。

ここを超えて次に待っているのが、繰り返して着るという段階だ。

デザインがお気に入りである、素材の着心地がいいなど様々な理由で、もう一度着るという段階を乗り越えている。

自分の持っている服を思い返してみても、この段階まで達している服は少ない。

次が最終段階だ。

それは、着るために着る、という段階。

この段階は、デザイン、着心地、ブランド、そういった着る理由が排除され、自分にとって服を着ることは、この服を着ることである、というレベルまで昇華されている。

概念と言ってもいい。

朝に目を覚まし、洗面台で顔を洗い、テーブルで食事を摂り、出かけるためにこの服を着る。

服を選択する時間などない。

出かけるなら、服を着る。そのルールに、自分の好みや気分を差し挟まない。

「~だから」ではなく、「~のために」で着る。

服の扱い、概念が変化する段階だ。

「なぜこの服を持っているの?」という問いに対して、「着るために持っている」と答えられるのがこの段階であり、好きだったことなど忘れている。

スティーブジョブズが私服を制服化していた話は、ミニマリストの中では有名な話だが、この段階と似たようなものを感じる。

この段階まで持っていける服を持ちたい。

大体の場合で、繰り返して着るという段階が乗り越えられない。

似合ってるかな、流行に乗れているかな、というような不安を感じてしまうと、最終段階まではたどり着けない。

難しいものだ。

それぞれの段階を分かりやすくまとめると、以下のように出来る。

 

調査
雑誌やSNSなどから、好みの服を探す作業


試着
調査した服を、試してみる段階


所有
試着し、手に入れたいと思った服を、着るか着ないか選択出来る自由な状態にすること


実践
所有した服を、実際に着る


反復
実践した服を、様々な理由から繰り返し着ること


解脱
好きという思いも忘れて、服を着るためにその服を着る段階まで昇華されること

 

服の6段階。服を着る人は、日常からこれだけの段階を踏んで、服を考えている。解脱まではいかなくとも、反復まで昇華されている服は皆持っているだろう。

服に振り回されるのも、当たり前のように思える。

どれだけの種類の服が流通し流行しても、服というコンテンツを好きな人が絶えないのは、この深みにあるのかもしれない。

さて、服について変な考え方を展開してしまった。

書き終えてみて、「何言ってんだ俺」と思うところも、少なからずある。

でも、こんな感じで思考を落とし込むと、妄想も楽しくなってくるものだ。

無意味だったとは思わない。楽しかった。

 

期待するなんて自惚れだ

相手に期待をしないほうがいい。期待すれば、有難うと言わなくなる。

当たり前と思っていることに、有難うという感情は持ちにくい。

だから、相手に、当たり前にあれこれが出来るなどと期待しないことだ。

親子でも男女でもそうだ。

期待をするなんて、卑しいうぬぼれの感情だ。

馬を水辺に連れて行ったあと、水を飲ませようとしないことだ。

しかし、最近はそんな親が多い気がする。

期待が膨らむとそうなってしまうのかもしれない。

お膳立てを済ませた後は、黙っていなくてはいけない。

親は簡単じゃない。

 

 

神経症の人間

落ち着こうと思うほど、それが乱されたときに以前よりも苛立ちやすくなってしまう。

難しいものだ。

心を鎮めようと、深呼吸をしてみる。

そうすると、そのときはしっかりと心が据わってくれる。

しかし、それを維持することは難しい。

思うほどに神経が澄まされてしまい、普段ならやり過ごせるようなことも、気に障るようになる。

神経症の人間は、落ち着こうと思わないほうが、却っていいのかもしれない。

そうはいっても、思うなと言われるほど思ってしまうのが、神経症の人間だ。

私もそうだから、分かる。

生涯、付き合うしかないのかもしれない。

働くことは辛いが、人のためにはなりたい

働くことを苦痛に思う瞬間は、多々ある。

ただその苦痛は、人のために何かをするということから来るものではないように感じる。

困っている人のために何かをしようと思い行動するとき、苦痛よりはむしろ快楽を覚えるものだ。

しかし、働くというのは、辛いときやくるしいときのほうが、快楽の時間よりも多い気がするのだ。

人のために何かをするという要素が少ないからなのかもしれない。

企業が利益を得ようと思ったら、人のためというだけではやっていけないのだろう。

本当に人のためを思うなら、押し売りのような商売はないはずだが、現実では似たような商売ばかりのような気がする。

暑い季節は水を飲みたい人が多くいるだろうから、店頭に水を置こう。これは、動機が人のためだ。

暑い季節は水が良く売れるから、店頭に水を置こう。これは、動機が自分のためだ。

前者のように働けたら、気持ちがいいだろうな。

今の私は、後者に近い働き方をしている。

会社のために働いてる。だから苦しいのだ。

いつか、人のためにという動機の元で仕事をし、生計を立てられるようになりたいと思う。